ウィリアム・L・ローレンス
ウィリアム・レナード・ローレンス William Leonard Laurence | |
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生誕 | 1888年3月7日[1] ロシア帝国(現: リトアニア)サランタイ(リトアニア語版)[1] |
死没 | (1977-03-19) 1977年3月19日(89歳没)[1] スペイン マヨルカ島[1] |
死因 | 脳血栓の合併症[1] |
市民権 | ロシア帝国→ アメリカ合衆国[1] |
出身校 | ハーバード大学、ハーバード・ロー・スクール、ボストン大学[1] |
職業 | ジャーナリスト |
活動期間 | 1926年-1964年[1] |
受賞 | ピューリッツァー賞2回[1](1937年・1946年) |
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ウィリアム・レナード・ローレンス(英語: William Leonard Laurence、1888年3月7日 - 1977年3月18日)は、アメリカ合衆国の科学ジャーナリストである。
経歴
ロシア帝国支配下のリトアニア・サランタイ(リトアニア語版)生まれ[1]。1905年渡米し、ハーバード大学、ハーバード・ロー・スクール、ボストン大学で学んだ[1]。1913年アメリカ合衆国に帰化、第一次世界大戦でアメリカ陸軍通信部隊(英語版)に配属された[1]。1919年、フランス・ブザンソンのフランシュ=コンテ大学(フランス語版)に留学[1]。1926年ジャーナリストになり、1930年『ニューヨーク・タイムズ』に移籍した[1]。
1945年4月、アメリカ合衆国陸軍省と契約し、マンハッタン計画の公式歴史家を兼務[2]。同年7月16日、ジャーナリストとしてただひとり、人類初の核実験「トリニティ実験」の見学を許可され、実験場のあるニューメキシコ州では残留放射能がほとんどない、との記事を書いた[1][2]。8月9日、長崎市への原子爆弾投下に同行し上空から取材した[1]。原子爆弾開発の経緯や科学者らの成果について、9月26日から10月9日まで10回にわたって連載し、翌1946年2回目のピュリッツァー賞を受賞した[2]。
著作
- Dawn Over Zero: The story of the atomic bomb. New York: Knopf, 1946.
- We are not Helpless: How we can defend ourselves against atomic weapons. New York, 1950.
- The Hell Bomb. New York: Knopf, 1951.
- Men and Atoms: The discovery, the uses, and the future of atomic energy. New York: Simon and Schuster, 1959.
脚注
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “William Laurence, Ex‐Science Writer For The Times, Dies” (英語). ニューヨーク・タイムズ (1977年3月19日). 2018年8月8日閲覧。
- ^ a b c 繁沢敦子『歪められた原爆報道 : 占領期における連合国側記者の活動を中心に』(レポート)2009年3月。https://hiroshima-cu.repo.nii.ac.jp/records/1690。2024年4月1日閲覧。"『被爆地広島の復興過程における新聞人と報道に関する調査研究』掲載論文"。
外部リンク
- Laurence, William. L (1947), Dawn Over Zero: The Story of the Atomic Bomb, Bristol: Western Printing Services Ltd. - Internet Archive
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