シャルロット・ド・ロアン (1737-1760)
シャルロット・ド・ロアン Charlotte de Rohan | |
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コンデ公妃シャルロット、ジャン=マリー・リブー(Jean-Marie Ribou)画 | |
称号 | コンデ公妃 |
出生 | (1737-10-07) 1737年10月7日 フランス王国、オテル・ド・スービーズ(英語版) |
死去 | (1760-03-04) 1760年3月4日(22歳没) フランス王国、オテル・ド・コンデ(英語版)[1] |
埋葬 | 1760年3月11日 フランス王国、フォーブール・サン=ジャック(フランス語版)、カルメル会修道院 |
配偶者 | コンデ公ルイ5世ジョゼフ |
子女 | マリー ルイ6世アンリ ルイーズ・アデライード |
家名 | ロアン家 |
父親 | スービーズ公シャルル・ド・ロアン |
母親 | アンヌ=マリー=ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ |
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シャルロット・ゴドフリード・エリザベート・ド・ロアン(フランス語: Charlotte Godefride Élisabeth de Rohan, 1737年10月7日 - 1760年3月4日)は、ブルボン朝時代のフランス王族、コンデ公ルイ・ジョゼフの最初の妻。
生涯
スービーズ公シャルル・ド・ロアンとその最初の妻でブイヨン公エマニュエル・テオドーズの娘アンヌ=マリー=ルイーズの間の第1子・長女[1]。
1753年5月3日ヴェルサイユ宮殿にて血統親王(プランス・デュ・サン(英語版))の1人であるコンデ公ルイ・ジョゼフと結婚[1]。父スービーズ公は娘に2000万リーヴルもの巨額の持参金を用意した[2]。コンデ公妃シャルロットは洗練された女性で、貧者に憐れみ深かったとされる。リュイヌ公爵(フランス語版)によれば、彼女は長く患った後[3]、1760年3月4日に22歳で世を去った。葬儀は死の1週間後の3月11日[3]に執り行われ、遺骸はフォーブール・サン=ジャック(フランス語版)のカルメル会修道院内に埋葬された。 その追悼のため、ゴセックがレクイエムを作曲している。
1739年母よりゴルド及びモンシャ(Moncha)の所領を相続。1745年自身の権利としてギニャン(英語版)の女子爵となった。持参金の一部としてアノネ(英語版)の所領を婚家にもたらした。異母妹のゲメネ公妃ヴィクトワール・ド・ロアンは王妃マリー・アントワネットの賭博仲間であり、王家のガヴァネスの要職を務めている。
子女
- マリー(1755年 - 1759年)
- ルイ・アンリ(1756年 - 1820年) - コンデ公
- ルイーズ・アデライード(英語版)(1757年 - 1824年) - ルミルモン女子修道院長
引用・脚注
- ^ a b c van de Pas, Leo. “Charlotte de Rohan”. Genealogics .org. 2010年3月16日閲覧。
- ^ Villemur, A. R. Monseigneur le duc de Bourbon: notice historique sur la vie et la mort de son altesse royale, p.15. https://books.google.com/books?id=4vNAAAAAYAAJ&pg=PA15&dq=Charlotte+Godefride+de+Rohan-Soubise&lr=&as_brr=3&ei=QaiiS76AA4PUzQTNoNmBCQ&cd=49#v=onepage&q=Charlotte%20Godefride%20de%20Rohan-Soubise&f=false 2010年3月18日閲覧。
- ^ a b d'Albert de Luynes, Marie Charles Louis. Chronique de le régence et du regne de Louis XV p.238. https://books.google.com/books?id=sGUPAAAAQAAJ&pg=PA234&dq=princesse+de+conde+1760&lr=&as_brr=3&ei=59aiS-bNC4a-zATz_7jlCA&cd=117#v=onepage&q=&f=false 2010年3月19日閲覧。