セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)
この項目では、クリミア戦争の戦闘について説明しています。その他の同名の戦いについては「セヴァストポリの戦い」をご覧ください。 |
セヴァストポリ包囲戦 | |
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戦争:クリミア戦争 | |
年月日:1854年10月17日 - 1855年9月11日 | |
場所:セヴァストポリ(クリミア半島) | |
結果:英仏土連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
イギリス フランス帝国 オスマン帝国 サルデーニャ王国 | ロシア帝国 |
指導者・指揮官 | |
フランソワ・カンロベール(フランス語版、英語版) ラグラン男爵 オメル・パシャ(トルコ語版、英語版) | ヴラジーミル・コルニーロフ † パーヴェル・ナヒーモフ † |
戦力 | |
175,000 | 85,000 |
損害 | |
死者128,000 | 死傷者102,000 |
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セヴァストポリ包囲戦(セヴァストポリこういせん、英: Siege of Sevastopol、露: Оборона Севастополя)は、クリミア戦争中の戦いの一つ。ロシア黒海艦隊が立てこもるセヴァストポリをイギリス・フランス・トルコ連合軍が攻撃した。
セヴァストポリは黒海艦隊の根拠地であったため高度に要塞化されていたことやロシア側の補給を絶つことができなかったこと、さらにロシア側が黒海艦隊の艦艇の艦砲を要塞防衛に転用し水兵も要塞防衛に利用したために、戦いはほぼ1年にわたって続いた。戦病者も含め両軍で20万人以上の死者を出した後、連合軍の突撃によって要塞は陥落。ロシア軍はセヴァストポリから撤退して黒海艦隊は無力化し、連合軍が黒海の制海権を得た。
レフ・トルストイは士官候補生としてこの戦いに参加しており、この時の経験を元に『セヴァストポリ物語(英語版)』を書いた。