タレーランのベルギー分割計画

フランスによるベルギー分割計画。
ベルギーの歴史
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中世盛期
フランドル併合戦争(英語版) 1297-1305
ブルゴーニュ領ネーデルラント 1384-1482
*リエージュ戦争(英語版) 1465-1468
ハプスブルク領ネーデルラント 1482-1556
近世
北方ルネサンス 15C-16C
スペイン領ネーデルラント 1556-1714
*ネーデルラント17州 1549-81
*オランダの反乱(英語版) 1568-1648
オーストリア領ネーデルラント 1714-93
*ブラバント革命 1789-90
*リエージュ革命(英語版) 1789-91
フランスによる統治(英語版) 1793-1815
近代
オランダによる統治 1815-1830
ベルギー独立革命 1830-1831
レオポルド1世 1831-65
*ロンドン条約 1839
レオポルド2世 1865-1909
*第一次学校戦争(英語版) 1879-84
*コンゴ自由国 1885-1908
現代
ベルギー領コンゴ 1908-1960
アルベール1世 1909-1934
第一次世界大戦 1914-18
*ドイツ帝国による侵略(英語版) 1914
*残虐行為(英語版) 1914
*ドイツ帝国のベルギー占領(英語版) 1914-18
ルアンダ=ウルンディ 1922-62
レオポルド3世 1934-51
第二次世界大戦 1940-45
*ベルギーの戦い 1940
*ナチス・ドイツのベルギー占領(英語版) 1940-44
*ユダヤ人迫害(英語版) 1941-44
*ベルギーの解放 1944-45
国王問題 1944-50
ボードゥアン1世 1951-93
アルベール2世 1993-2013
フィリップ 2013-現代

ベルギー ポータル

タレーランのベルギー分割計画(タレーランのベルギーぶんかつけいかく、英語: Talleyrand partition plan for Belgium)は、1830年のロンドン会議においてフランス駐イギリス大使シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールが提案した、ベルギーの分割案。当時、イギリスフランスプロイセンロシアオーストリアの5大国は独立革命に成功したベルギーの処遇について討議していた。

背景

独立要求の世論が高まっていたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国はベルギーの処遇について意見が割れた。フランスはフランス語圏のワロン地域の分離を主張、フランスへの併合も視野に入れていた。しかしフランスの要求は諸国に拒否され、ウィーン会議で決定されたオランダとの連合が継続するべきとされた。しかし、瞬く間に広まった民衆反乱はオランダの南ネーデルラント統治を終わらせ、ウィーン会議での決定を覆した。ベルギー人はブリュッセルで臨時政府を設立したが、ヨーロッパ諸国はベルギー人を懐柔しつつオランダとの連合を維持しようとした。ナポレオン時代より、イギリスは「ロンドンの心臓に指しているピストル」と評されたアントウェルペンが敵国フランスの手に落ちることを恐れていた。実際、アントウェルペンの価値はナポレオン・ボナパルトも気づいており、彼はフランス艦隊のためにアントウェルペン港(英語版)の建設を命じた。

分割案

議論が膠着に陥ったため、タレーランは南ネーデルラントの分割を提案した。

結果

タレーランの分割案はヨーロッパ諸国に拒否され、結果的にはベルギーが独立国となる案が受け入れられた。当時ベルギーはフランスとそれ以外のヨーロッパ諸国の間の緩衝国という扱いだったが、タレーランの分割案はベルギーの歴史でしばしば取り上げられるベルギー分割(英語版)案の1つとなった。現代の分割案ではフランス語圏(ワロン地域)とオランダ語圏(フランドル)とで分けるといったものがあるが、フランス語圏であるブリュッセルがワロンではなくフランドルにある、といった難点がある。

参考文献

  • The neutrality of Belgium: Chapter II - the London conference and the quintuple treaty Talleyrand, The Prince of diplomats
  • Fishman, J. S. "The London Conference of 1830," Tijdschrift voor Geschiedenis (1971) 84#3 pp 418–428.
  • Kelly, Linda (2017). Talleyrand in London: The Master Diplomat's Last Mission. London: I. B. Tauris. ISBN 978-1-78453-781-4