ムハマド・ムハマドゥラー
ムハマド・ムハマドゥラー মোহাম্মদ মুহম্মদুল্লাহ | |
任期 | 1973年12月24日 – 1975年1月25日(1974年1月24日までは大統領代行) |
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首相 | ムジブル・ラフマン |
出生 | (1921-10-21) 1921年10月21日 イギリス領インド帝国 ベンガル州 ラーイプル |
死去 | (1999-11-12) 1999年11月12日(78歳没) バングラデシュ ダッカ |
政党 | (アワミ連盟→) (バングラデシュ民族主義党→) アワミ連盟 |
受賞 | |
出身校 | ダッカ大学 リポン大学(英語版) |
ムハマド・ムハマドゥラー(ベンガル語: মোহাম্মদ মুহম্মদুল্লাহ, ラテン文字転写: Mohammad Mohammadullah, 1921年10月21日 - 1999年11月21日)は、バングラデシュの政治家。バングラデシュ人民共和国の第3代大統領を務めた。
経歴・人物
1921年10月21日、英領インド・ベンガル州のラーイプル市ラクシュミプール地区で生まれた[1]。モハマドゥラーは地元の中等学校[2]を卒業後、ダッカ大学で歴史学の学士号を優等で取得し、コルカタのリポン大学(英語版)で法学の学士号を取得した。1950年、ダッカ弁護士会の会員になり、1964年にはダッカ高等裁判所に弁護士として登録された[3]。
1950年代からアワミ連盟の党員として活動し、1953年から1972年まで東パキスタンの事務局長を務めた。1966年にシックスポイント運動(英語版)に参加したため、投獄された。1970年、パキスタン・東パキスタン州議会(英語版)の総選挙(英語版)にアワミ連盟から出馬。1971年のバングラデシュ独立戦争中には、サイード・ナズラル・イスラーム(英語版)大統領代行の政治顧問に任命された[3]。
1972年4月10日、制憲議会(英語版)の副議長に選出され、11月12日には議長に選出された。ライプール - ラクシュミプール選挙区から国会議員に選出された。
1973年12月24日に共和国大統領代理になり、1974年1月24日に大統領に就任した。1975年1月には、ムハマドゥラーは大統領を解任され、ムジブル・ラフマン大統領を任命する第4回改正案が可決された。
1975年1月26日にムジブル・ラフマン内閣の土地管理・土地改革大臣に任命された。1975年8月15日のラフマンの暗殺後には副大統領に任命された。1980年からバングラデシュ民族主義党 (BNP)に参加。アブドゥス・サタール政権では副大統領を務めたが、フセイン・ムハンマド・エルシャド将軍が軍事クーデター(英語版)を起こしたため、わずか1年で辞任した。1991年にBNPから国会議員に選出されたが、総選挙(英語版)の前にBNPを離党し、アワミ連盟に再入党した。
1999年11月12日に78歳で死去。海軍本部近くのバナニ墓地に埋葬された。
栄典
- ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王記念章 (ブータン王国) - 1974年[4]
参考文献
- ^ Hundred Years of Bangabhaban, 1905-2005. Press Wing Bangabhaban. (2006). p. 343. ISBN 978-984-32-1583-3. https://books.google.com/books?id=rBFuAAAAMAAJ
- ^ ラクシュミプール・アダルシャ・サマド政府高等学校(英語版)
- ^ a b “Mohammadullah, Mohammad”. Banglapedia. 11 November 2016閲覧。
- ^ Final Programmes for The Coronation and The Silver Jubilee Celebration