仁木高長
凡例 仁木高長 | |
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時代 | 室町時代後期 |
生誕 | 文明14年(1482年) |
死没 | 不明 |
改名 | 千代菊丸→次郎四郎→高長 |
官位 | 右馬助→右馬頭 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義稙 |
氏族 | 仁木氏 |
父母 | 仁木貞長 |
妻 | 徳大寺実淳の娘? |
子 | 晴国、晴定 養子:義政[注釈 1] |
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仁木 高長(につき たかなが)は、室町時代後期の武将[1]。
概要
『伺事記録』には、延徳2年(1490年)閏8月18日に仁木右馬助(貞長)の子・千代菊丸の名前が見える。父は鈎の陣で討死しているため、千代菊丸は当時5歳で家督を相続した[1]。
『長興宿禰記』延徳3年(1491年)8月22日条によると、9歳で第二次六角征伐に従軍している[1]。
文亀3年(1503年)12月18日付けの「東福寺文書」によれば、仁木次郎四郎高長が京都六角の家屋を横領している[1]。
『後法成寺関白記』永正4年(1507年)12月29日条によると、この日に「(近衛尚通)の北方妹」が高長に嫁いでいる。尚通の北の方(正室)は徳大寺実淳の娘(維子)であるため、高長の妻も実淳の娘であると考えられる[1]。
『後法成寺関白記』永正8年(1511年)8月16日条によれば、足利義稙に同行して丹波国に下向し、その後船岡山合戦に参戦している。また、同年10月21日以降は右馬助の名前が見えるようになり、高長が右馬助に任官されたことがわかる[1]。
脚注
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注釈
出典
- ^ a b c d e f 稲本紀昭「伊賀国守護と仁木氏」三重大学教育学部編『三重大学教育学部研究紀要』38号(三重大学教育学部、1987年)
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