広幡経子
広幡 経子(ひろはた きょうこ、1837年4月7日(天保8年3月3日[1]) - 1876年(明治9年)3月13日[1])は、江戸時代後期の女性。水戸藩第10代藩主・徳川慶篤の御簾中(継室)。父は内大臣・広幡基豊。院号は経慈院。別名は鋭姫。諡は恵懿夫人。
生涯
内大臣・広幡基豊の次女として生まれる。1858年(安政5年)、前妻の幟子女王と死別した徳川慶篤の継室となり、1男1女(鶴千代麿と金姫)を出産したがいずれも夭折する[2]。
1868年(慶応4年)に慶篤が亡くなると落飾し経慈院と号した。1876年(明治9年)、死去[3]。
脚注
- ^ a b 『常陸太田市史 通史編 上』(常陸太田市、1984年)p.762
- ^ 「徳川諸家系譜4」(1984年、戸原純一、続群書類従完成会)
- ^ “広幡家(清華家)”. 世界帝王辞典. 2023年5月13日閲覧。
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