永島四郎
この項目では、フラワーデザイナーについて説明しています。横浜の酒場経営者、神奈川県ふぐ協会創設者については「永島四郎 (実業家)」をご覧ください。 |
永島 四郎(ながしま しろう、1894年 - 1963年)は、日本のフラワーデザイナー、華道家。日本のフラワーデザイン(花卉装飾)における先駆者。
概略
長野県埴科郡松代町(現長野市)出身。1921年、千葉県立園芸専門学校(現千葉大学園芸学部)卒業、東洋園芸株式会社に入社[1]。1922年、欧米の花卉装飾の研究のため渡米、翌年帰国[2]。帰国後の永島の作風は、西洋で得たものに日本人の持つ「わびさび」の心を併せ持った独特のものとなり、日本文化の西洋化の一端を担うこととなった。1935年、東京・銀座に「婦人公論花の店」を開店(戦争により1944年に閉店)[2]。1951年、第一園芸株式会社取締役に就任[3]。
「花卉装飾には冨の裏づけが必要である」という名言を残した。弟子に山本晃などがいる。
著書
脚注
- ^ “日本における洋風花卉装飾(フラワーデザイン)の歩み(2)”. 花楽のフラワーデザイン雑感. 2015年3月5日閲覧。
- ^ a b 村正勇次郎 『花屋が誰も書けなかった「花屋で成功するための本」』 文芸社、2002年。
- ^ “沿革”. 第一園芸株式会社. 2015年3月5日閲覧。
参考文献
- 久保数政 『美しい花をいけたい人への全6章フラワーデザイン覚書』 六耀社、2014年