膳巴提便
凡例 膳 巴提便 | |
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時代 | 古墳時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 巴提使 |
主君 | 欽明天皇 |
氏族 | 膳臣 |
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膳 巴提便(かしわで の はすひ/はです[1]、生没年不詳)は、日本古代の6世紀前半の豪族。姓は臣。
記録
『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇6年3月(推定545年)、百済に派遣されたとある[2]。この時、妻子同伴で半島へ向かっている。そのことが、以下の悲劇の原因となった。
同年11月に帰国した際に、以下のように朝廷に報告した。
「百済の海浜で日が暮れたので野宿しましたが、その際に小児が急に消え失せて行方不明になりました。その日大雪が降り、夜明けになって探すと、虎の足跡がありました。私は刀を帯び、甲冑を着て、巌岫(いわおのくき=岩場の洞穴)を探しあてました。
『敬(つつし)みて、糸倫(みことのり)を受けて、陸海(くぬがうみ)に劬労(たしな)みて(=苦労して)、風に櫛(かしらけず)り雨に沐(ゆするあみ)して、草(かや)を藉(まくらに)し、荊(しば)を斑(しきい)にすることは、其の子を愛(め)でて、父(おや)の業(わざ)を紹(つ)がしめむが為なり。 (勅を受けて山野に奔走し、風雨にさらされ、草を枕に茨を床にして苦労するのは、子を愛し親の業を継がせようと思うためである。)訳:宇治谷孟
かしこき神はたった一人の子を与えてくれたが、今宵、其の子が亡くなってしまった。跡を追って探しに来た。命をおとすことも恐れず、報復するためにやって来たのだ』
こう言ったところ、虎は前に進んで、口を開いて飲み込もうしましたが、私はすぐに左の手を伸ばして、虎の舌をとらえて、右の手で刺し殺して、皮をはいで還ってきました」[3]
以上が、膳巴提便の虎退治の一部始終であり、宮廷食膳職以外の膳氏の武勇を物語る代表的な伝承の一例である。
脚注
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参考文献
関連項目
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