良尚入道親王
良尚入道親王(りょうしょうにゅうどうしんのう、元和8年12月16日(1623年1月16日)- 元禄6年7月5日(1693年8月6日))は、江戸時代前期の京都曼殊院の門跡。父は八条宮智仁親王。母は丹後国宮津藩主京極高知の娘常照院。幼称は二宮。俗名は勝行・寛恒。
曼殊院宮の付弟(ふてい)となり、1632年(寛永9年)後水尾天皇の猶子となった。1634年(寛永11年)8月に親王宣下を受け、9月に曼殊院で得度している。1646年(正保3年)3月には天台座主に任じられ、1656年(明暦2年)現在の京都御所近くにあった曼殊院を洛北一乗寺村へ移転し、伽藍を整備している。1681年(天和元年)には曼殊院の門主に任ぜられて竹之内門跡と称された[1]。1687年(貞享4年)4月に曼殊院を退院して天松院と号した。
絵画を狩野探幽・尚信兄弟に学び、池坊華道を納めて古典に通じるなど文化人としても知られた。
脚注
- ^ 『禁中並公家諸法度』第13条では門跡になれるのは天皇の皇子と連枝(兄弟)に限られ、それ以外の皇親は門跡にはなれないと解されてきたが、同法度の制定から65年にして天皇の猶子となった宮家出身者が門跡とされたのである(高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P138)。
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