草内村

くさうちむら
草内村
廃止日 1951年4月1日
廃止理由 編入合併
田辺町、普賢寺村三山木村草内村大住村田辺町
現在の自治体 京田辺市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
綴喜郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 1,948
(国勢調査、1950年
隣接自治体 綴喜郡田辺町、三山木村井手町、多賀村、青谷村久世郡富野荘村
草内村役場
所在地 京都府綴喜郡草内村
座標 北緯34度48分45秒 東経135度47分09秒 / 北緯34.812448度 東経135.785863度 / 34.812448; 135.785863座標: 北緯34度48分45秒 東経135度47分09秒 / 北緯34.812448度 東経135.785863度 / 34.812448; 135.785863
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草内村(くさうちむら)は、京都府綴喜郡にあった。現在の京田辺市の南東部、木津川の左岸にあたる。

地理

  • 河川:木津川

歴史

  • 草内の名前は草の中から地蔵が見つかったことに由来する。
  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、草内村・東村・飯岡村の区域をもって発足。
  • 1951年昭和26年)4月1日 - 田辺町に編入。同日草内村廃止。

草内の渡し

1582年(大正10年)6月

草内集落はかつての条里集落で、古くから草内の渡しと呼ばれた木津川の渡しがあり、河内・山城・近江が結ばれる、古来の東西交通路の要衝であった。

1582年(天正10)6月2日未明に起こった本能寺の変の際、徳川家康と穴山信君は泉州堺を遊覧中であった。同日昼頃には急報がもたらされていたとされる家康は、茶屋四郎次郎清延の案内で岡崎への脱出を開始し、3日この地で木津川を渡り、伊賀超えを経て無事岡崎へ逃れた。

一方信君は猜疑心から家康とは別行動を取っており、1日遅れてこの地に辿り着いたが、一揆勢の手にかかり主従12名は落命した。一説に普賢寺谷で信君の従者が道案内人を殺し、その太刀の銀製のツバを奪った事から、土着民が蜂起し、木津川を渡る前に殺害されたともいわれる。

  • 指定府道枚方水口線

参考文献

関連項目

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